◇老人と橋
◇老人と橋
「おじいさん、どこかでお会いしたことありましたか?」
老人の瞳の色に、どこかしら自分に近しいものを感じたカイエは尋ねてみた。元から答えなど期待しない問いではあったが、老人はゆるゆると頭を振った。
「旦那様、これも何かのご縁でございます。あなた様に水難の相が出てございます……どうぞ水辺にはお気をつけくださいますように」
「ぅぅ……この街で水難ですか? とりあえず気をつけてみます。おじいさんもお元気で」
カイエは老人に笑みを向けて、再び歩き出した。
ミロルは泥濘都市という別名がある。大湖沼を埋め立てるようにして作られた都市だからだ。水難といわれても、なにをどう気をつけてもいいかわからない。少なくとも、一つの例外を除いて、水のある場所は井戸や、工業用に住民が自ら整備した上水道くらいしか思い浮かばない。
カイエの暮らすガンフック工房は、工房街ないし職人通りと呼ばれるところにある。終戦後、ミロルの町並みはかなり変わってしまったが、そのあたりはかつての町並みを色濃く遺している。
分水嶺。本来とはまったく違った意味で、その小さな川はそう呼ばれる。そしてここは、カイエの思い浮かぶ唯一の水難がありそうなところだ。
職人街とミロルの主立った商業地区や居住区などを線で引くように、小さな川が流れている。それこそ、ジョンでも一またぎで飛び越えられるような細い川なのだが、きちんとした橋が架けられている。
「いっそ鉄板でも掛けてしまったらどうかな?」
カイエは橋の手前でつぶやく。もしこの分水嶺と呼ばれる小さな川がなければ、町の中心部との行き来は簡単になるはずだ。
外を出歩くことができるようになってからすぐに、ユーリからこの川を跨いで渡ってはいけないと言われていた。
「そんなことしたら川に住む生き物が困るでしょう」
「なるほど――」
カイエはお世辞にも澄んでいるとはいえない川に目を落とした。取り立てて特徴のないような小魚がゆったりと泳いでいる。
老人は水難に気をつけろといったが、この小さな川では溺れようがない。
「――ん」
橋を渡りきったところで、カイエは後ろを振り返る。顎に手を当てたり、頭を振ったり空を見上げたりしている。
記憶を失う前の自分は、験を担ぐ方だったのだろうか。カイエはほんの少しだけ以前の自分を取り戻したような気分になって嬉しかった。
「なにやってるんだ?」
ジョンもそろって空を見上げる。青空に綿雲がぷかぷかと浮いている。
まったく持って平和そのもの。いつもの気持ちのよい午後の空が広がっている。
「む……」
カイエは不意にジョンを抱きかかえると、猛然と駆けだした。
抗議の声を上げようとしてジョンは舌をかむ。その痛みをジョン自身が自覚する前に、二人の身体を猛烈な爆風が煽った。
カイエは反射的にジョンを抱きかかえながら、土のむき出しになった道の上を転がった。
耳の奥がしびれている。身体全体を一度に叩かれたような痛みで、身動きすることができない。
「軍用爆薬――」
二人が数秒前に渡ったばかりの橋は、今は無惨に砕け散って、その残骸をあたりに散らしていた。カイエの頬に引っ掻いたような傷があるのは、おそらく破片によるものだろう。
幸いというべきか、目立ちすぎる白銀の髪を隠すためにいつもかぶっていた帽子がカイエの頭を守ってくれたらしい。
衝撃に茫然自失となっていたジョンはカイエのつぶやきを聞いていなかった。
泥濘都市ミロルは、ある意味では非常に戦争に近しい都市であった。しかしこの街が共和国側の兵器開発工場であったのは、ジョンが子供の頃の話だ。さらにミロルが直接戦場になることなどはなかった。
大戦中でも首都の大学に通っていたジョンが軍用爆薬の威力を知るのは、これがはじめてのことだ。共和国側でも枢軸側でも、軍用爆薬の組成は大差ない。
火薬を安定化させるための添加物によって爆発後に、独特の臭いが残る。これは単純に火薬が燃焼した時の硝煙の臭いとはまったく違うものだ。
線上で前線に出たものならば誰もが知る、忌まわしい臭いだ。
爆発は、工房街とミロルとをつなぐ橋だけにとどまらない。正確な位置はカイエたちには知ることはできないが、少なくとも三度以上、爆発音が遠くから響いた。
カイエはジョンを地面に押さえつけて、四つんばいになって辺りをうかがっている。その目は、ジョンの知るカイエとはまるで違う別人のようで、彼女はふるえながら黙っているしかできない。
どれほどそうしていただろうか、ダモクレスの糸のように張り詰めていたカイエの表情がふっとゆるんだ。
「とりあえずは……ジョン。気をしっかり持って」
カイエは自分が地面に押さえつけていたジョンを助け起こした。二人とも爆風で巻き上げられた砂やら泥やらで、まるで物置に入り込んだ黒猫のようだ。
道の端に転がっていたスープ容器と帽子を拾い上げて、カイエはもう一度空を見上げる。
「こんな天気のいい日は何かが起こると思ったんだ」
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