刺青の蟻後編 忍法一等斎
(にんぽういっとうさい)

 そんな刺青一等法師が、進太の母親に懸想しているということもまた、長屋では知れ渡っている。
 刺青一等法師は、刺青をしていることから想像できるとおり、呑む打つ買うを欠かさない生臭振りだった。
 しかし、寺の裏のさいづち長屋に進太親子が越してきてからというもの呑む以外の二つがぴたりとやんでしまった。
 進太の父親は、親子が長屋に越してきたときからすでにいなかった。どのような理由があるのかは、誰も問いたださなかった。
 しかし、母親のりんと張ったような美しさと、その息子である進太のおよそ言葉では言い表せないような雰囲気は、父親がよほどひとかどの人物であったろうことを伺わせた。
 若後家と坊主といえば、艶本ではすっかり使い古された取り合わせだが、当の刺青一等法師にとって見れば、一大事である。
 なにがあっても止まぬと見えた悪癖のうち二つが、ぴたりと止んだのだから外見からは想像もつかぬような純情一途な男なのかも知れない。
 刺青一等法師というあだ名が定着するまでは、タコ坊主、というのが彼のあだ名だった。
 その名の通りの風貌なのだ。禿頭なのか剃っているのか。ぴかりと血色よく輝き、その下の顔はいつでも赤らんでいる。
 身体は引き締まっているのだが、なぜか袈裟がずいぶんと大きく、そのふくらみ方がまるでタコのように見えるのだ。
「あらあら、お坊様」
 着物の繕いをしていた千羽は、蛸入道にそっくりな裏の和尚に笑みを浮かべた。
 刺々しさも、媚びた感じもない不思議と人を惹きつけるような不思議な笑顔であった。やはりただの町人の娘とも思えないが、接(つ)ぎの当たった着物を着ていても少しも痛々しい様子がない。
「やぁお千羽さん」
 きっと何か理由のあって、名のある武家のご息女が江戸の雨漏りの染みだらけの部屋で息子と二人で暮らしているのだろう。
 そんなことを考えると、和尚は不憫でならない。
 彼はいままで女を不憫だと思ったことはない。吉原の女達にも、ごく普通の男と女として接することができた。
 それが、いまはできない。いざ抱こうという段になると、瞼(まぶた)の裏に千羽の笑顔がちらちらと浮かんで、そうなると突然に萎えてしまうのだ。
 なぜそうなのか。
 和尚にとってそれは初めての経験であった。生涯妻をめとることなく、遊女ととっかえひっかえして遊ぼうと考えていた彼がこれほど一人の女に気を惹かれるなどというのは予想もしないことだった。
「どうですかな? こちらでの暮らしにはもうなれましたか」
「ええ、皆さん本当に親切で」
 千羽は着物を丁寧に畳むと小さな籠の中にしまった。立ち上がって、和尚のために立て付けの悪い戸を開けてやる。
 この戸は少々くせ者で、同じ長屋でもそれぞれ部屋ごとに癖が違うのだ。その癖がわかっていないと、どれほど力を込めてもびくともしない。
 少なくとも一年に一度、この長屋に熊五郎が無償で戸の修理を行っているのだが、長屋全体が少しずつ傾いでいっているのか、いつの間にかもとに戻ってしまうのが常であった。
「あら、あら?」
 千羽は雨水が染みて黒く変色した戸を前に首を傾げた。長屋が少しずつ傾いでいってる故なのか、その日その日で戸の『癖』は少しずつ変わってくる。
 まだ越してきて日の浅い千羽は、まだそのあたりの要領が掴めていないのだろう。
「どれ拙僧も……」
 そういって和尚が戸に手をかけると、ふと力をかけた拍子に千羽の蝋涙のように白い指に触れてしまう。
「む、これは失敬つかまつった」
「あらあら、わたくしの宝庫と和尚様にお手間をかけさせてしまって」
 そんな二人のやりとりを隣室で息を潜めて聞いている者があった。
 熊五郎の妻おようである。
 まだ半年の赤子をおぶって、土壁に耳を当てていたおようはにやり、と笑った。


 進太は、父の顔を知らない。母に聞いたこともない。それを尋ねたら、きっとは母は深く傷つくに違いないという確信が少年の胸の内にあったのだ。
 少年の瞳を覗きこんだことがあるものは、この江戸八百八町のうちにいない。母の言いつけで、いつでも目を細める癖が深く身に付いているためだ。
 母のいうことには、目を細めておくことは、目の鍛錬になるというのだ。
「のみとりー、のみとりー、ねこののみーとらんかえー」
 意気込んで出てきたものの、あまり声がかからない。いままでノミ取りを頼んだのが例外なく老人だという点も、なんとなくではあるが気に掛かる。
 あるいは、猫を飼うのはやはり老人が多いというだけの話なのだろうか。
 行きはよいよい、帰りは怖い。童歌ではないが、母の役に立てると思って喜び勇んで出てきたが、猫のノミ取りだけで二人分のたつきとするのは相当に難しいことであるようだ。母は手放しでほめてくれることがわかっているだけに、このままでは帰りにくい。
 今日ノミを取った猫は、明日明後日はまだノミがついていないだろう。
 進太は、夕暮れの川辺の道で、しげしげと狼の毛皮でこしらえたという手袋を見つめた。
 あのお坊さんは、母上のことが好きだから自分に親切にしてくれるのだろうか。自分の母親がかなり人目をひくということは、故郷から江戸まで二人旅をしてきた間に気付いた。
 親子で危ない目にも遭ってきたのだ。
 こうして親子二人、江戸でのんびり暮らしているということがまるで夢物語のように感じられる。
 これからどうなるのだろうか。
 もしかしたら、あのお坊さんがあたらしいお父さんになるなんてことがあるのか知らん。
 あのお坊さんは優しいけどお酒臭いからちょっと苦手だ。
 そんなよしなしことを思いながら、進太は夕焼けの空を移す穏やかな川面を眺めながらいつまでも坐っていた。


 進太がさいづち長屋まで戻ってきたのはすっかり日が落ちてからのことだ。
 いつもは昼寝をする猫のように細められている目がいまは見開かれている。
 薄曇りの月明かりでも、進太の目ははっきりとさいづち長屋のかたちを捕らえられる。
 障子戸の向こうの明かりはほとんどが消されている。この長屋の住人達は、灯の脂代を浮かせるためにも、早寝早起きが習い性になっている。
 進太はふと、いつもこの時間であれば必ず灯の消えているはずの熊五郎の家の明かりが灯されていることに気付いた。
 珍しいことだ。熊五郎のおじさんが花札で派手にスって、おばさんにこってりと絞られているのだろうか。
 怪しみつつも、進太は足音を消して自分の家の戸を音もなく開けた。母親とは違って、進太はすっかりこの家になじんでしまっているようなのだ。
「和尚様、いけません!」
「この蟻が……蟻がさせるのです!」
 部屋に這入った進太が目にしたのは、肩をはだけさせられた母親と、息を荒くして、茹で蛸そっくりに顔を赤くして興奮する和尚の姿だった。
 和尚の脱ぎかけのフンドシからは、天を貫けとばかりに逸物が屹立している。それを目にした進太が、「あっ!」と声を上げる。そのときにはすでに進太の目はいつものように、猫の昼寝になっている。
「進太!」
 母親が子に縋(すが)るように声を上げる。
「和尚さん、危ない!」
 進太の返事はあべこべなものだった。母に覆い被さろうとする刺青一等法師を気づかうような声だ。
 進太は手に持っていた狼の毛皮の手袋で、刺青一等法師の逸物をしゃにむにはたいた。
「和尚さん、こんなところに蟻が!」
 刺青一等法師。
 彼の入れ墨は体中でたった一カ所。
 群を抜いて立派な逸物の『竿』に、這うように彫られた一匹の黒蟻。
 その逸物の立派振りと、そのような場所に蟻を彫るという『粋』が認められて刺青一等が与えられた。
「オン!」
 進太が両手の指を妙なかたちに組み合わせる。
 そして、その瞳が大きく見開かれる。
 おお! きみは見たか!!
 法師の逸物に彫られた蟻が、命を得たかのように動き出したではないか!
「忍法――殺眼」
 娘とも見まごう進太の桃色な唇が不思議な言葉を紡ぐ。
 進太の卍に広がる瞳孔が、法師の逸物の上で逃げまどうように動き回る刺青を蟻を捕らえる。
 音もなく、刺青の蟻が法師の逸物から畳の上に落ちる。落ちた蟻は、ふたたび隅の塊の戻ったがごとく畳に染み込んだ。
「和尚さん、危ないところだったね!」
 ふたたび猫の昼寝の目に戻った進太が、刺青一等法師――であった男に駆け寄る。
 進太はちょうど一年ほど前に蟻の巣穴に立ち小便をしていたら、天罰覿面、自分のおちんちんを蟻に噛まれるというチン事に遭遇したのだ。
 同じ男として放っておけなかったのだろう。
 しかし、進太がすくってやったと思った男は、泡を吹いてひっくり返ってしまっていた。
「あらあら……」
 千羽は立て付けの悪い戸を前にしたのと同じ声を漏らした。顔は本のと紅潮している。
 ひっくり返った法師の逸物は、ご丁寧に天井に向かっていきり立っていた。



 『無』刺青一等法師と呼ばれた男と、やがて忍法一等齋と呼ばれることになる少年は、こうして本当に出会ったのであった。