思索駆動 Ergo Drive

第一幕 二


 カイエが目を覚ましたのは、何度も洗って毛羽立ったシーツの上だった。
 ゆらゆらと揺れている。それがカイエに感じられる唯一の身体感覚だった。
 腕を上げようとしても、かろうじて指先が震えるばかりだ。
「目が覚めたの?」
 そんなカイエを覆い被さるようにして、のぞき込む者があった。
「気分は? 水ならあるけど? ここはミロルのガンフック工房の二階よ」
「ぁ……」
 矢も盾も止まらない、といった調子でしゃべり続けている短髪の女性の顔を見つめて、カイエは何度も目をしばたたいた。
 自分の視界がこれほど色に満たされているのはずいぶん久しぶりの気がする。
「戦争は……」
 カイエは、自分の声が信じられないほどにしわがれていることに気づく。しかし、驚くより先にこらえられない咳の発作が襲いかかってくる。
「はい、水。あわてないで、ゆっくり」
 女性が気遣わしげにカイエの背中を撫でながら水の入ったコップを近づける。
「戦争は?」
 水を一口だけ口に含んでから、カイエは先ほどと同じ疑問を口にする。
「あなたは、ずっと金属の塊の中に閉じこめられていたの……その前はどんな暮らしをしていたのかわからない」
「閉じこめられていた?」
 カイエは次第に感覚の戻ってきた身体を、すべての意志を動員して動かしてみた。右手がゆっくりと持ち上がり、指が震えながら開く。
 自分が閉じこめられていた記憶はない。しかし、今の自分の状態はきわめて衰弱していると言っていいだろう。
「たぶんあなたは……名前を教えてもらっていい?」
「俺の名は、カイエ」
「わたしはユーリ。この工房に住み込みで働いてる。よろしくね、カイエ」
「それで、戦争は?」
 カイエは三度同じ質問を口にした。なぜそれほどまでに戦争という言葉が自分に焦燥感をもたらすのかはわからない。
「戦争は、もう十年前に終わった」
「そんな……はずは」
 カイエは震える手で自分の顔に触れた。
「たぶんあなたは、枢軸国の人間に閉じこめられていたのね……そのままあんな金属の塊に押し込まれて」
 連合国と、枢軸国の戦いは、思考騎兵を要する連合国の勝利に終わった。戦時中の枢軸国は様々な人体実験を行っていたという事実は、学校に行かずすぐに働きはじめたユーリでさえも知っている。
 親方は直接そうだといわなかったが、この青年はおそらく枢軸国に拉致監禁されていたのだろう。
 巨大な金属の塊を解体してみたら、青年が出てきた。
 五年間の技術士見習い期間の中で、ユーリがもっとも驚愕した一瞬だった。それも青年は全裸だったからなおさらだ。
「大丈夫、きっと何とかなるわ。寝泊まりならこの工房を使ってもいいって親方も言ってるし」
 その親方は、青年が出てきたあとの金属の塊をプレス機に掛けて完全につぶしてしまった。
 そのまま、親方は青年の世話を頼むと言ってフイといなくなってしまったのだ。
「戦争が終わった……」
 カイエにとってはそれは信じがたいことだが、それは事実だ。
 全世界で、五千万を超す戦死者を出し、ようやく戦争は終結したのだ。
「本当に……」
「ここはミロル。首都からは泥濘都市なんて呼ばれているけれど、戦後復興が首都に次いで早い都市なのよ」
 ユーリはカーテンを開いて見せた。
 ミロルの空は高い煙突から吐き出される煙のせいかいつでも曇っているように見える。
 それでも窓からの光で部屋は明るく照らされた。
「いつもは暗くなるまで働いて寝に帰るだけなんだよね」
 ユーリは苦笑しながら、さりげなく作業着の袖で窓ガラスに付いたほこりを払う。
「ミロル。この街の名前がミロルで、きみの名前がユーリ」
「そうだよ、カイエ。何も心配いらないよ。身体の調子が戻るまで――あなたさえよければしばらくここに住んでいいって、親方も言っていたし」
 カイエはその言葉に曖昧に頷きながら、部屋の中を見回した。
 壁も床も天井も、板張りがあらわになった簡素な部屋だ。左の扉が傾いでいる観音開きのクローゼットが一つきり。
 テーブルと椅子は、明らかに手作りとわかるものだ。
 そのテーブルの上に、折りたたまれた新聞が置いてある。
「それは――」
「うん、新聞だよ。この街には一つだけだけど新聞社があるんだよ」
 ユーリは説明しながらテーブルの上の新聞に目を落とす。
「う……ん。一週間前のものだけれど、読んでみる?」
 カイエはユーリの差し出した新聞を見つめる。
 さすがに一週間前の新聞ともなればあちこちにシワがより、端の部分は切れている。
「――」
 カイエは第一面を受け取ったまま、凍り付いている。
「どうしたの?」
 まさかカイエにとって衝撃となるような記事でもあったのだろうかと、ユーリはあわててカイエの背後に回って新聞をのぞき込んだ。
 第一面に写真付きで掲載されている記事はこうだった。『国営博物館、財政難のために一部展示品を売却』というものだった。
 明るいニュースではないが、無駄な出費を抑えようとする新政権の英断として、おおよその国民には指示されている。
「これが、どうかしたの?」
「なんて書いてあるのか、理解できない」
 それだけではなかった。文字が『理解できない』と言うことをきっかけとして、カイエは自らの過去を追想することができないことをようやくはっきりと自覚した。
 自分の名前はわかる。新聞やシーツベッドなども、どういったものかわかる。
 しかし、以前の自分自身がいったいどのようにして暮らしてきたのかわからない。
「鏡を、貸してくれ」
 カイエは震える手を差し出す。切迫した空気が伝わったかのように、ユーリは小走りになってテーブルの上に投げ出してあった手鏡をカイエに手渡した。
 鏡の中には、白髪の男がいる。それを銀髪と呼ぶには、あまりにも色あせている。目元を隠すほどにのみ高見の毛の下の肌は、白髪とは不釣り合いなほどに若々しい。
「俺は、いくつなんだろう」
「急にいろいろあると、記憶が混乱することがあるって親方も言ってたよ。大丈夫。時間はたっぷりあるんだから」
 ユーリは根拠もなく笑ってみせる。
「迷惑を掛けた。すぐに出て行くよ」
 カイエはベッドから降りると、素足のまま部屋の外に出て行こうとする。ユーリはあわてて、カイエのシャツの裾をつかむ。
「ちょっと待って! そのまま出歩くのはちょっとまずいの!」
「どういうことだ?」
「この町では、住人も旅行者も認識票を持っていないといけないの。持たないで街を歩いているところをお役人に見つかったら――」
 ユーリは言いよどむ。カイエは、あの巨大な金属の塊から出てきたのだ。もし、警察に連行されれば面倒なことになるかもしれない。
「親方が何とかするって言ってたから……それまではここにいてよ。そうだ、カイエお腹減ってない? 腹が減っては戦はできぬっていうし、お総菜屋さんで肉団子スープ買ってきたんだよ」
 その言葉にカイエは自分の腹に手を当ててみる。空腹感は全く感じない。
 この部屋で目を覚ますまで自分が何をやってきたのかは、未だ思い出せないが、案外悪い暮らしでもなかったのかもしれない。
 その証拠に、時間がたつにつれ身体の感覚は鋭敏になっていく。飢餓状態の苦痛や乾きでさえ遠くなる、あの感覚とは全く違う。
 そこまで考えて、自分が今までに極度の空腹を経験したことがあるであろうことは容易に想像できた。
 痛みや暑さ、寒さ……そういった身体的な感覚は、おぼろげながら思い出すことはできた。
「急いでとってくるから待ってて! 真空瓶に入ってるから熱いままだよ」
 腹に手を当てたまま動きを止めたカイエを見て勘違いしたのか、ユーリがうれしそうに部屋を飛び出していった。
 一人部屋に取り残されたカイエは、片手に残されたしわくちゃの新聞をもう一度見つめた。
 文字は読めなかった。
 しかし、一面を飾る博物館の写真は、記憶の奥深くに確かに刻まれていた。


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