◇工房街
カイエがガンフック工房で目覚めてから二ヶ月が過ぎた。
ほとんど歩けないほどに衰弱していたカイエも順調に回復して、今ではガンフック工房で見習いとして働いている。
身分証明書も、親方が古い馴染みの伝手を頼って取得してきたものが手に入った。何はともあれ、身分証明書が在れば街中を自由に羽動くことができるのだ。
「あら、カイエ君おはよう」
「おーす」
お使いを頼まれて街を歩いていたカイエの背中から二人連れの女性が声を掛けてきた。
すらりとした長身に不釣り合いな大きな鞄をたすきがけにした女性が新聞記者のスーエ。
背の低い人形のような顔立ちに、人形のようなドレスをまとった少女が人形工房の若き工房長ジョンだ。ジョンというのは通名で、本名はジョセフィーヌという。
「やぁ、おはようございます」
スーエとジョンはまったく似ていないが、背丈がかなり違い、まるで親子連れのように見える。
思わず浮かんだカイエの笑みを、ジョンがめざとく見つける。
「コラッ、なに笑ってるんだ! わたしはお前より年上だぞ!」
「え――いや、決してそういう意味では」
「成敗!」
ジョンは全力で体当たりする。彼女の頭はカイエのみぞおちに命中する。
「ぐわ」
しかしカイエの腹筋に阻まれて、むしろジョンの方のダメージが大きかったようだ。
「バカにしやがってぇ……」
うっすらと涙を浮かべたジョンを、カイエは申し訳なさそうに見下ろす。
「あはは……ところで、文字は読めるようになった? ちょうど今日は早上がりだったから、ジョンと落ち合って古い新聞持って行こうと思ってたのよ」
本人曰くこの街唯一の女性記者であるスーエは、勤めている新聞社の古い新聞をカイエに唯で渡している。
共和国圏で使われている文字や文法を学ぶとともに、新聞記事を読むことで少しでも記憶を取り戻す手助けになればというスーエの配慮だ。
とはいえ、カイエはまだそこまでは気づかない。
「なんとかだいたいは読めるようになりました。元々共和国人だったのかな?」
「なるほどね。それはそうと最近親方とユーリは元気にしてる? すっかりご無沙汰しちゃってるけど」
スーエは緩く編んだ三つ編みをもてあそびながら首を傾げる。そうしていると、彼女はまるで物語の中のお姫様のように見える。
「フン、バカは風邪を引かないというからな。あいつらは師弟共々元気ぐらいしか取り柄ないだろ」
ジョンが鼻を鳴らす。薄い胸を反らすさまは、異国の王女のようだ。ジョセフィーヌという大仰な名前を嫌う彼女だが、自らの経営する人形工房の宣伝をかね、いつもドレスを着ている。小柄なのも相まって人形のようにも見える。カイエには理解しようもない複雑な心情があるらしい。
ジョンとユーリは、いわば幼なじみの間柄だがそれだけに遠慮なく喧嘩する。カイエからすれば、自分の子供時代の思い出を共有できる人間がいるなんて幸運なことだと思うのだが、本人達にとってはそうではないらしい。
「あ! そういえば、忘れ物してたや」
大げさな声を上げてスーエが立ち止まる。
「会社に道具忘れてきちゃった。いったん戻るね。じゃあ、カイエ勉強がんばって。ジョン、お茶はまた今度ね……オジャマ虫は退散いたしますよ。イシシ」
「あ、どうも……」
妙な笑みを浮かべて走り去るスーエの背中を、カイエとジョンはあっけにとられて見送った。大きくふくらんだ鞄が大きく揺れている。中身は何かは知らないが、かなり重そうだ。やはり新聞記者というのは体力は必要な職業なのだろう。
「いったい何だったんだ?」
「わたしにきくな」
ジョンはなぜかそっぽを向いてカイエの脇腹をこづいた。
「ホラ、さっさと行くぞ。いつもの総菜屋だろ」
「うん。マーさんの肉団子スープ」
戦争終結後、共和国の同盟国から流れて来たというマーさん一家がやっている総菜屋は、泥濘都市ミロルの端にある職人街の人々に支持されている。
何よりも安くて量が多いのだ。
「あそこの肉団子って妙に安いけど、こんな噂知ってるか?」
「ん? いや、考えたこともないな」
「ふっふっふ……あのなー、あそこの肉団子が安いのはネズミの肉を使ってるからなんだぜ」
ジョンは精一杯声を低くしておどろおどろしく演出してみるが、カイエは不思議そうに首を傾げるばかりだ。
「え……と、だから?」
「は?」
「人間の肉じゃなかったら、別にいいんじゃない」
「だってお前、ネズミだぞ、ネズミ! ちゅーちゅーって! しっぽだけ毛が生えてないし!」
「ところで……鳥の脚って鱗状になってるの知ってる?」
「いやぁ!」
ジョンは両耳を塞いで駆けだしてしまった。ジョンに悪いことしてしまったな、と思いながらもカイエはふと頬をゆるませてゆっくりと彼女の後を追った。
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