◇老人と橋
通りの向こうからマーさんの店のスープの食欲をそそる香りが漂ってくる。
ジョンはふてくされた顔をしながらもマーさんの店の前でカイエを待っている。自分もガンフック工房の二階で夕食をとるつもりで居るのだろう。
かつて泥濘都市ミロルは、工匠都市と呼ばれていた。大戦中の共和国軍の試兵器のほとんどはこの都市で、作られ、試験された。
終戦後、機密を守るためにかつての工匠のほとんどは解体され、共和国中に散っていった。
かつての工匠都市の面影を遺しているのはガンフック工房のある町外れの界隈だけだ。
マーさんの総菜店は、新しく整備された区画でメインストリートに面している。爆破テロのせいで現在も閉鎖されたままの博物館跡や、スーエの勤めるこの街に一社だけの新聞社などがある。
「おう、カイエー来たのかー」
店の中からマーさんの家の坊やたちが飛び出してくる。
駆け寄ってきた勢いもそのままにカイエの腰に飛びつく。カイエは男の子を二人腰からぶら下げるような格好のまま店の入り口まで歩いていった。
「いらっしゃい」
末娘ははにかんだ様子でカイエを出迎えた。子供達の中では一番年下なのに、一番しっかりしているらしい。
「お父さんにいつものスープをと伝えてくれるかな? この容器に入れてね」
カイエは女の子の頭を撫でてやりながら容器を手渡す。マーさんの店にスープを買いに来る人々は皆密閉式の容器や鍋を持参するのだ。
「お前、子供の扱いになれてるな」
「そうかな?」
カイエははにかんだ笑みを浮かべて子供達をそっと抱き上げた。その様子はいかにも手慣れているようで、若い父親にしか見えない。
「お前結婚してたのかな?」
「さあ……」
ジョンの問いにカイエは軽く首を傾げてみせるだけだった。何となく大家族だったのではないかと想像はできるが、それが真実かはわからない。
「……」
何となく二人は黙り込んで左右に流れていく人の波を眺めた。子供達は父親に呼ばれて店の奥に引っ込んでしまった。
「なぁカイエ。今度職人市に出かけないか? いろいろなものを見たら記憶を取り戻す手がかりになると思うんだ」
店の中からスープを受け取って戻ってきたカイエにジョンが声を掛ける。なぜか少し声がうわずっている。
「そうだね、余裕ができたら、近いうちに必ず」
工房街では、二週間に一度広場でバザールのようなものを開く。商売の場と言うよりは情報と技術交換の場だ。ガンフック工房も程度のいい工作機械を修理して出品しているが、カイエは参加したことがないのだ。
「一緒に食事してくよね」
「うーん……そこまで言うなら付きあってやるのにやぶさかでないぞ」
「じゃあ、行こうか」
世界大戦は枢軸国の首都消滅をもって共和国側の勝利に終わった。
傷痍軍人には手厚い援助がされていることになっている。
「……旦那様、どうぞ哀れな老人にお恵み下されませんか」
石畳に腰を下ろした老人がカイエたちを見上げている。伸び放題の白髪は脂まみれで、絡み合って縄のれんのようになっている。
老人は左脚がないようだ。木製の義足が老人の身体に立てかけてある。
乾ききって染みの浮かんだ枯れ木のような手が、カイエに向かって差し出されている。
「……ご苦労様でございます」
カイエはポケットの中をまさぐっていくつかの小銭を老人に手渡した。
「いいのか?」
ジョンは不満げだ。彼女は傷痍軍人であればなおさら誇りを持って生きていかなければならないと一途に思いこんでいる。
「傷痍軍人かどうかも怪しいじゃないか」
老人には聞こえないようにカイエに耳打ちする。新首都では傷痍軍人を装って物乞いをするものが後を絶たないという。
「旦那様、ありがとうございます」
老人はカイエに向かって深々と頭を下げる。縄のれんのような髪の奥から老人の目が覗く。人生をの終わりを待つばかりといった外見に反して、その瞳には不思議な力がこもっている。
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